青森県の自然環境の特徴
青森県は独特な地形を持っており、三方向から海に接して、豊かな自然環境に恵まれています。下北半島はマサカリの形を思わせるように突き出ており、地勢が複雑です。
県の中心部には標高1,500m級の八甲田山があり、太平洋側と日本海側の境界となっています。
白神山地は世界自然遺産に登録された美しい山地で、「神々の住む森」と称されています。
県土の3分の2は森林で覆われ、白神山地や十和田湖などがあり、美しい自然景観が広がっています。
青森県の魅力的な自然は、四季折々の美しい風景や新鮮な食材、観光名所として訪れる人々に楽しみを提供してくれます。
この地域は台風の再上陸によく見舞われ、1991年(平成3年)には台風19号(りんご台風)により、収穫を迎える直前のリンゴが甚大な損害を受けました。さらに、日本海側では積雪も多く、1945年(昭和20年)には珍しい「雪泥流」(水を含んだ積雪が流れ下る現象)のような災害も発生していました。
青森県の太平洋側と日本海側の気候は大きく異なる
青森県は本州の最も北にある場所に位置し、東は太平洋、西は日本海、北は津軽海峡と三方は海で囲まれています。また、南部は岩手県と秋田県と隣接しています。
この地域には、ユネスコの世界遺産にも登録されているブナの原生林が広がる白神山地があり、これが秋田県との境界に連なっています。さらに、その東側には美しい景色が広がる十和田湖があり、多くの観光客がその静寂な風景に魅了されています。
青森県は北側で津軽海峡を越えて北海道と接しており、下北半島と津軽半島が海に向かって伸びています。これらの半島に囲まれた地域には、広大な陸奥湾が広がっています。しかしこの陸奥湾は、中央から北へと伸びる夏泊半島の存在により、青森湾と野辺地湾の二つに分けられています。このように青森県の湾岸線は複雑に入り組んでいます。
青森県の多様性は地形だけで終わりません。気候も変化に富んでいます。県内の東部と西部での気候差は非常に大きく、まるで別の地域にいるかのようです。この違いの背後には、その独特の地形が大きく影響しています。
中央部に奥羽山脈が連なっており、この山脈が境界となって、東部は太平洋の気候特性を、西部は日本海のそれを受けています。ただ、気候の違いだけでなく、文化や風土、人々の性格にも顕著な違いが見受けられるのが、青森県ならではの特色です。歴史的にも、太平洋側は南部藩、日本海側は津軽藩として、異なる統治を受けていた時期がありました。その名残で、両側の住民間には競争心が根付いており、今日でもそのライバル感覚が色濃く残っています。
青森県の気象災害の歴史
日付 | 災害種別 | 死者・行方不明者数 | 被災地 | 災害内容 |
1910年5月3日 | 火災 | 26 | 青森市 |
青森大火は1910年(明治43年)5月3日に青森県青森市で発生した。 青森は過去、数多くの火災が発生していたが、中でもこの火災は空前の惨事と言われた。安方町のある菓子工場で火災が発生。強風により火は急速に拡大し、約4時間半後にようやく鎮火。死者26人、160人以上が負傷。5,200戸以上の家が焼失した。当時、青森歩兵第五聯隊は、火事への対応として350名以上の兵士を現地に派遣した。全国各地からの支援や、明治天皇・皇后からの罹災者救恤金1万円が下賜された。 青森市出身で、日本シャンソン界の先駆者として「ブルースの女王」と呼ばれた淡谷のり子も、この火災で、自身も被災し、豪商であった生家は没落した。 |
1945年3月21日 | 雪泥流 | 88 | 鰺ヶ沢町の赤石川上流 |
青森県赤石村(現鰺ヶ沢町)の赤石川上流で、折からの大雨により山崩れが発生し、川を堰き止め天然ダムが形成された。この天然ダムが翌23日未明かけて決壊し、下流の大然集落を雪を伴った泥流が襲った。 大然集落は山で狩猟を行う「またぎ」の住む集落であったが、全21戸のうち20戸が流失し、88人が死亡するなど集落は壊滅状態となった。この雪解けの山津波により一夜にして消滅し、山津波で集落が消えることの恐ろしさを物語った。この年は雪が多く、同年2月21日には青森市で積雪深209cmを記録(観測史上1位)したほか、山津波のあった3月22日には青森市で147cmの積雪があった。被災地では、3月になっても3m程度の積雪があったと伝わる。 |
1975年8月5日~7日 | 大雨 | 22 | 弘前市百沢 |
1975(昭和 50)年 8 月 6 日午前 0 時すぎ、青森県に雷を伴った集中豪雨が降り、中津軽郡岩木町百沢地区(現弘前市)を大きな土石流が襲った。死者 22 人、重軽傷者 31 人などを出し、午前 1 時からの 1 時間雨量は百沢で 70 ミリ(推定)、黒石で 65 ミリであった。百沢地区は市街地から西に約 10km離れた岩木山のふもと、岩木山神社近くの静か集落である。渓谷から押し出してきた土石流は、幅 100m 余にわたって集落をのみ込んだ。ひと抱え以上もある巨石が、民家を約 500mも押し流し、つぶしてしまった。 |
1977年8月5日 | 大雨 | 11 | 津軽地方 | 8月4日夜半からの大雨のため、岩木川や平川、浅瀬石川、土淵川などが氾濫、特に弘前市や黒石市、中南津軽地域に大きな被害が発生しました。この災害で、11名が死亡または行方不明となり、47軒の家屋が全壊・流出し、さらに136軒が部分的な被害を受け、13,684軒が浸水被害に遭いました。 |
1981年8月21日~23日 | 暴風雨 | 2 | 全域 | 昭和56年台風第15号は、1981年8月に関東地方に上陸し、東日本や北日本に被害をもたらした。青森県でも全県的に強風、浸水、がけ崩れなどの被害が発生しました。 |
1982年9月10日~12日 | 暴風雨 | 1 | 三八地方 | 昭和57年台風第18号は、1982年9月に発生し、静岡県に上陸し東海から関東・甲信地方を中心に、北海道から兵庫県までの27の都道府県に被害をもたらした。青森県でもとくに三八地方で暴風、大雨による被害が生じた。 |
1991年9月28日 | 暴風雨 | 9 | 全域 |
平成3年台風第19号は、日本列島に甚大な被害をもたらした台風で、東北地方では「りんご台風」の別名で呼ばれている。 全国的に、暴風により多数の死者、家屋の倒壊等があった。 青森県では、人的被害のほか、収穫前のリンゴの落果などの甚大な被害が発生し、被害総額は1129億円にも達した。 |
1999年10月27日 | 暴風雨 | 2 | 三八地方 |
東シナ海で発生した低気圧は、27日に本州南岸で急速に発達しながら四国沖から東海沖を通って関東地方、三陸沖に進んだ。 その影響で、東日本や東北地方の太平洋側を中心に、27日から28日にかけて大雨となった。青森県の太平洋沿岸でも300mm前後の大雨と暴風によるがけ崩れなどの被害が発生、被害総額は342億円に達した。 |
1991年の台風19号による災害ーーーりんごは収穫できなかったが善意の収穫
「まるで地獄絵を見るありさまだった。強固な防風ネットが崩れ、地面はリンゴで一面覆われていた。」
黒石市のリンゴ生産者は、その壮絶な被害の様子をこう表現しています。
平成3年(1991年)9月27日、宮古島東方海域から進行してきた台風19号は、中心気圧940hPa、中心付近の最大風速50m/s、暴風範囲600kmという猛烈な勢力で長崎県佐世保市に上陸。台風はいったん日本海に抜けたあと北海道に再上陸し、青森市で最大瞬間風速53.9m/sを記録するなど、各地で記録的な強風をもたらしました。
青森県内では、約36万本のリンゴの樹が台風の影響を直接受け、収穫前のリンゴ約35万トンが風で振り落とされました。この大きな被害に直面したリンゴ生産者たちは、その打撃の大きさに呆然としていました。
一方、青森県には日本各地から励ましや心温まるメッセージが寄せられました。心を動かされた農家たちは「リンゴを収穫できなかったが、善意を収穫できた」と語っています。青森県のリンゴ生産量は一時的に影響を受けましたが、その回復スピードは早く、翌年にはほぼ前年並みの生産量を取り戻しました。
北西の季節風の影響
奥羽山脈の存在により、青森県の太平洋側と日本海側の気候は大きく変わりますが、海流の影響も見逃せません。
東部の太平洋側には、千島海流(親潮)という寒流が北から南へと流れ、一方、西部の日本海側には暖流である対馬海流が南から北へと流れています。このような海流の動きも、青森県の気候を形成する要因として大きな役割を果たしていることは確かです。
冬になると、日本の上空には大陸からの冷たく湿度の高い北西の風が流れてきます。これを季節風と称し、その名の通り夏と冬で風の方向が変わります。大陸でのこの風は冷たくて乾燥していますが、日本海を渡る間に暖流の対馬海流の影響を受けて、水蒸気を多く含み湿った風になります。そして、この湿った風が奥羽山脈に達すると上昇し、雪雲を形成して、その結果、山脈の前方に豪雪をもたらすのです。しかし、奥羽山脈が障壁となり季節風を遮る影響で、太平洋側は少ない降雪と多くの晴れた日が多いという特徴となっています。
奥羽山脈の西部、津軽地方に位置する弘前市や黒石市をはじめとする内陸エリアは、北西からの季節風がもたらす雪により、国内でも有数の豪雪地帯として知られています。これらの地域では、雪の積もりにくい通路を作り出し、日常生活をスムーズに進めるため、家々の出入り口に長い「小見世」というひさしを設ける文化が根付いています。これは現代のアーケードを連想させるもので、他地域では「雁木」と呼んでいます。特に黒石市では、この小見世の古き良き風景が色濃く残り、観光スポットにもなっています。
(黒石観光協会HPより)
津軽半島、下北半島、そして陸奥湾の南側は、北西からの強い季節風の影響をダイレクトに受けるため、風が頻繁に吹き、降雪も多いです。具体的に、陸奥湾の南端に位置する青森市では、積雪が10cmを超える日数が年間で101日となっており、これは日本海側の秋田市の41.9日や、内陸の山形市の54.7日と比べても格段に多い数字です。青森県は全域で豪雪地帯に指定されるほどで、北海道を除けば、全国で最も寒い県なのです。
歴史に残る八甲田雪中行軍遭難事件
八甲田山、青森県の中心部に立つ標高1585mの火山群は、県民にとっては単なる美しい風景以上のものを持っています。この山の麓には、国民保養温泉第一号として知られる酸ヶ湯温泉をはじめとする多数の温泉が湧き出ています。しかし、この山が歴史に名を刻むこととなったのは、その美しい景色や温泉地とは別の理由でした。
1902年、明治35年の冬、北海道では-41℃という史上最低気温を記録するなど、厳しい冷波が日本を襲いました。その寒波のただ中、日本陸軍の青森歩兵第5連隊が、ロシアとの戦争を予見しての寒冷地での戦闘訓練を行う目的で、青森市から八甲田山への雪中行軍を開始しました。この行軍は、ロシアの艦砲射撃による補給路破壊を想定し、八甲田山を通過するルートの確保を目的としていました。
しかし、予想を遥かに上回る吹雪と低温に見舞われ、行軍は遭難へと繋がりました。全体の210名の参加者のうち、199名がこの行軍中に命を落とすという、近代の登山史上でも世界最大級の遭難事故が発生しました。この事件は「八甲田雪中行軍遭難事件」として知られ、後の山岳小説や映画の題材ともなっています。
八甲田山遭難は、日本の冬季軍事訓練史上でも最も多くの犠牲者を出した事故であり、現代にもその教訓は色あせることなく伝えられています。
八甲田雪中行軍遭難事件を描いた小説
八甲田雪中行軍遭難事件を描いた映画
冷たい風「やませ」とは?
冬は雪が少ない太平洋沿岸は居心地が良いものの、夏にはその様子が一変します。夏の間、オホーツク海気団からの北東の風が太平洋側に流れてきます。この風が千島海流(親潮)という寒流を越えて流れてくるため、冷やされた湿気を含む風として吹きつけます。この特有の風を「やませ(山背)」と称しており、その影響で霧が出ることが多く、天気は曇りがちになることが多いです。そのため、日照不足で気温はなかなか上がらず、農作物が被害を受けることが少なくありません。つまり「冷害」です。
この対策として、太平洋沿岸の地域では、冷害に強いナガイモやゴボウ、ニンニクなどの作物が主に栽培されるようになったのです。
青森県のニンニク生産高は日本一で、全国の70%以上を生産しています。最近では冷害に強い稲も開発され、米の収穫高も増加しており、現在では全国で11位の生産高と順位を上げています。
日本海側の地域では、奥羽山脈が立ちはだかっているため、やませの影響を受けることはほとんどないといっていいでしょう。ですから晴天の日が多く、気温もやや高めで過ごしやすい夏になります。津軽地方は日本一のリンゴの産地として知られていますが、これも津軽地方の気候がリンゴの栽培に適しているからです。
対馬海流という暖流は日本海沿岸を南から北方向に流れ、青森県の西側に達すると二つの方向に分岐します。一つは津軽海峡を通って太平洋へと向かう津軽海流、もう一つは北海道方面へと進む対馬海流です。
太平洋側では、この津軽海流と北部から流れる冷たい親潮が交差します。このような寒流と暖流が交わる地域を「潮目」と称し、ここではプランクトンの繁殖が盛んになるため、魚の生息に適しています。この現象のおかげで、八戸市周辺の海域は全国的にも注目される漁場として知られており、八戸市は豊富な漁獲高で名を馳せる水産都市として発展しているのです。
青森県の地震被害
青森県で起こった主な地震
年月日 | 地震名 | 詳細 |
915年 | 十和田火山の噴火 |
十和田火山は日本の活火山の中でも注目されており、約1100年前の西暦915年に歴史上最大の噴火を記録しています。この連続的な噴火が生んだ大きなくぼ地、カルデラに水が溜まり、今私たちが知る十和田湖が形成されました。 この伝説的な噴火と関連して、地域には「三湖伝説」という古い伝承があり、それは十和田湖、八郎潟、田沢湖の3つの湖に関わる物語です。主人公、八郎太郎が龍に変身し、七日七晩の戦いを繰り広げる中で、さまざまな地形や湖(八郎潟)が形成されたという内容で、この伝説の中のエピソードは実際の火山活動や地形の変動と関連しているとも考えられています。 近年、2014年の御嶽山の噴火などの火山災害を受け、気象庁は十和田火山を「常時観測火山」として、監視活動を強化しています。この取り組みとして、関連自治体との協議会も設立され、「噴火警戒レベル」の導入が進められています。今は、静かに見えますが、十和田火山は、将来必ず噴火します。十和田火山の活動に対する注意と理解が求められる中、これらの施策は地域住民や訪問者の安全確保のために不可欠です。 |
1677年4月13日 | 延宝八戸沖地震 | 1677年4月13日に、青森県の東方沖、具体的には八戸沖を中心として大きな地震が発生しました。この地震は、陸奥や陸中でも感じられ、規模としてはM7-8と推定されています。また、この地震に伴って津波も引き起こされました。三陸沖北部の特有の地震活動の一例とされています。 |
1766年3月8日 | 明和津軽地震 |
明和3年(1766年)3月8日に発生した地震は、津軽地域に甚大な被害をもたらしたもので、明和津軽地震とも称されます。この地震は、江戸時代の津軽地方における最大の被害を記録しています。 地震の中心地は弘前近郊とされ、地震の規模はおおよそM6.9からM7と見られています。特に弘前や青森では、藩の建物や役所、寺社の大部分が倒壊や焼失し、住民の住居も多数破壊されました。約1,500人がこの地震とそれに伴う火災で亡くなったと伝えられており、さらには津波の影響もあり、遠く千葉県の銚子までその影響が及んだとされています。 その年の津軽地方は、例外的な豪雪に見舞われており、屋根に積もった雪の重みが家屋の倒壊を加速させたとされます。また、冬の寒さから家庭で暖房用の火が使われていたため、地震による家屋の倒壊と同時に火災も発生し、被害を拡大させた要因となったとされています。この地震の結果、今では一般的な「雪下ろし」の習慣が生まれたという話も伝えられています。 総じて、この明和津軽地震は、津軽地方の歴史において深刻な被害をもたらした出来事であり、その後の生活様式や建築にも影響を与えたと言えるでしょう。 |
青森県の地震活動の特徴(地震本部報告要約)
青森県から宮城県の太平洋側では、過去に巨大な地震がいくつか記録されています。例として、1896年の明治三陸地震や1933年の三陸地震、1968年の十勝沖地震が挙げられます。これらの地震は、特に津波の影響で多くの被害をもたらしました。1896年の明治三陸地震では青森県内で死者343名、1933年の三陸地震では死者・行方不明者30名の被害が生じました。
さらに、陸に近い地点での小規模な地震でも、強い揺れにより被害が生じることが確認されています。1994年の三陸はるか沖地震では、八戸市を中心に数名の犠牲者が出ました。そして、青森県の東方では、歴史的な資料からも多くの地震が発生していることが知られています。
日本海の東側でも、1983年の日本海中部地震や1993年の北海道南西沖地震が記録されており、これらは震源地が沿岸に近いため大きな被害をもたらしました。日本海側は太平洋側より地震活動が低いとされるものの、近年では新潟から北海道にかけて連続的な地震活動が確認されています。
2011年の東北地震では、青森県内でも死者や行方不明者、負傷者が発生しました。また、地域内では、1766年の津軽地震などの歴史的な大地震が記録されており、これらの地震は特定の断層の動きと関連していると考えられています。特に、津軽半島の西側や日本海沿岸での地震は、地域の地形変化をもたらすことも確認されています。
青森県のいくつかのエリアでは、過去に短期間に多数の地震が記録される群発地震が確認されています。例えば、下北半島や岩木山の周辺では、1970年代や1980年代に小規模な地震が多発しています。これらの地震と近隣の活火山との関連性は明確ではありませんが、研究が続けられています。
青森県は、周辺の県や地域での地震、さらには外国の地震の影響も受けることがあります。例として、1960年のチリ地震が生んだ津波の影響が挙げられます。また、青森県には複数の活断層が存在し、これらの断層は大きな地震の原因となる可能性があります。特に、県内の多くの市町村は、日本海溝や千島海溝の地震の影響を受けるリスクがあり、その対策が求められています。
地震本部による将来の地震発生の可能性(青森県および周辺の主要活断層帯と海溝で起こる地震(算定基準日2023年1月1日))
地震 | マグニチュード | 地震発生確率(30年以内) |
日本海溝沿い 青森県東方沖及び岩手県沖北部(ひとまわり小さいプレート間地震) |
M7~7.5程度 | 90%程度以上 |
日本海溝沿い 岩手県沖南部 |
M7~7.5程度 | 30%程度 |
日本海溝沿い 青森県東方沖から房総沖にかけての海溝寄り |
Mt(津波マグニチュード)8.6~9 | 30%程度 |
日本海溝沿い 沈み込んだプレート内の地震 |
M7~7.5程度 | 60%~70% |
参考文献
『47都道府県 知っておきたい気象・気象災害がわかる事典』(三隅良平著)